こんばんは、センテンスのギターのまさとしです。
先日8/18は京都の二条にあるnanoでライブでした。
すごく嬉しく、幸せな日でした。
感想などを徒然と書きますね。
1組目はフライデイフライデー。
普段は5人組で、この日は3人編成やった。僕は初めて見るので、ドラムとベースがいなくても、それは問題ではなく、この日のフライデイフライデーが僕にとってのフライデイフライデーの全てやった。
このあと僕がステージに上がってMCで喋ったことやけど、「ステージは人や」と思った。
それくらい、この3人のステージは僕にできることじゃないと思った。
できることじゃない、というのにプラスの意味もマイナスの意味も付与してない。
ただただ、僕は僕という人間やから、こういうふうにはできるはずがない、とはっきり感じた。
演奏力やルックスの善し悪しというのはそういうことのさらに表面にある社会的意味付けレベルでの話で、それは重要でありつつ、最重要ではない。
とにかく、僕は彼らのように演奏することはできず、彼らのようにステージに立つことができない。少なくとも今のところは。
トリはヒロタウタ(hotel chloe)。
この日はバンドではなく、弾き語りでのステージ。
店長のモグラさんがツイッターで書いていたが、彼が本物だというのはすごくわかる気がする。
本物感というものがあるとしたら、それはどこからやってくるのか。
僕が思うに、それは彼の身体や魂と、ギターを弾くことや歌を歌うこととの距離がものすごく近い、ということなんじゃないか。
ぱっとギターを持って椅子に座ったら右手が弦を弾き、横隔膜と喉が震えて、目の前にいる人との間の空間に波が起こる。
そういう現象を心理的・身体的抵抗なしに、ほとんどシームレスに行うことができる感じが、僕が感じた本物感というものかなぁと思った。
そして、これもモグラさんがツイッターで書いていたとで、リアリティという言葉。
本物かどうかとリアルかどうかというのは、矛盾せず存在する基準軸で、「本物というにはまだ早いがリアル」というものはあると思う。
でも、「本物やけどリアルではない」というものはない気がする。
「本物やけどリアルかどうかはまだわからん」なら、あるかもしれん。
多分リアルであることというのは、とにもかくにもステージの上で人が見えるということやと思う。
ステージは人そのものやと俺は思うから、リアルであるということは、僕がステージを見て「いいな」と思う前提条件や。
ステージは人そのものやから、自分を偽っている人は自分を偽っている人だということがはっきりとわかるステージになると思う。
ともかくリアルであること、リアリティが上がっていった先に、本物と言われ得るステージがあると思う。
本物というのは一種の「狂い」やと思うから、とにかく自分に沈んでいくプロセスが必要で、沈んで沈んで、自分だらけで息ができへんくらい自分を見つめ続けた先にズボッと抜けて広がってる世界と手を結べるかどうか、ということなんやと勝手に思っている。
なぜか、そういうイメージははっきりあって。
昨日ライブが終わって、モグラさんから嬉し感想をいっぱいもらった。
嬉しかった、ありがとうございます。
そして、「二人が音楽をやらなくなっても、何かをやっていくと思う。音楽は形式に過ぎひん」みたいなことを言ってもらった。
僕らは今、センテンスという音楽をやり、本を出版し、畑で作物を育て、仕事をしてお金を稼いでいる。
そういうことすべてが同じ何かなんであって、それがいろんな形をとって世の中にはみ出ていっているんだ、という気がする。
そういうことを言葉にして伝えてもらえることってあんまりないから、モグラさんと話せて嬉しかった。
そうそう、フライデイフライデーを見てる時にもうひとつ思ったこと。
これもMCで言ったけど、俺は子供の時ファミコンばっかりしてた。
左手で十字キーを操作してコマンドを入力し、右手でタイミング通りAボタンとBボタンを押す日々。
これがギターに切り替わっただけで、本質的におんなじことをやっている。
ただ、ファミコンでいくらすごいプレイをしてもあんまり感心してくれる人はおらんかったけど、ギターを弾いてステージに立ったら、拍手がもらえた。
それが大きい気がする。
いまセンテンスとして、僕がやっていることの本質が変容していくかもしれないという気がしている。
根本的に全く違うことをしながら、音楽としては相変わらずセンテンス、というのもいいなと思った。
すげーいい日でした、見てくれたみなさん、出演者のみなさん、モグラさん、nanoスタッフのみなさん、ありがとうございました!