2016年11月25日金曜日

メタファーとしての音楽を味わった日のこと~「小さなピアノコンサートとcarapace展示会」と「イイ夫婦の日」を通して~

ギターのまさとしです。

今回は僕たちが出版しているインディペンデントな本である『STAGE』のブログとセンテンスのブログとに同じ文章を載せることにします。だんだんと僕の中で二つが統合されてきた感じもあるし、分けるのも面倒くさいし。

 


SAKURAGAWA PIANO ROOMの山本明日香さんとcarapace山根澪さん・大谷たかしさんが主催されている「ちいさなピアノコンサートとcarapace展示会」に行った。

後半のcarapaceの山根澪さんの革についての話や作品の説明の時間は、僕にとっては初めて聞く話が多かった。写真に写っている白い鞄が特に可愛いなと思った。ステッチが青なのも良かった。

今度注文したいと思っている。

音楽をやっている僕としては前半の山本明日香さんのピアノの時間がやはり興味深かった。

楽譜が配られ、モーツァルトとベートーヴェンの曲の違いを言葉で聴きながら、実際に演奏してもらう。

この場にいたからと言って僕がモーツァルトとベートーヴェンのことを語れるようになったとは全く思わないが、少なくとも僕の中にある「モーツァルト的なものとベートーヴェン的なもの」が刺激されたことは間違いない。

なので、ここからはモーツァルトやベートーヴェンについて書くというよりも、二人「的なもの」について書いてるつもりです。

僕にとって、モーツァルト的なものというのは「いや、わかってるけど!!?」って感じがする。今回のコンサートで聴いた曲に限って言えば、音符の配列はとても規則正しく見えるし、実際に聴こえてくる音も美しくて、自然の風景が見えるような気がする。なんとなく。

僕も畑をやっているから、自然の持っている温かみや静けさ、だからこその怖さや雄大さみたいなものは少しは知っているつもり。だから、自然というものは嫌いじゃない。

でも、「自然に帰ろうよ」的メッセージを受けると、とたんにムカッ腹が立ってくる。だって自然はそんなこと言わへんし、ほっといてくれと思う。

もちろんモーツァルトがそんなこと言ってるとは思ってない。これは僕が勝手に感じているモーツァルト的なものについての話。

とにかく、「そういうのはもっと俺の迷路を俺自身が彷徨ってからにするから」と思ってしまう。

そういうエゴ丸出しの叫びを叫ぶ原動力が、僕にとってのベートーヴェン的なもので、この日聴いた彼の曲はとてもいびつな美しさがあった。

僕はギターを弾くとき、よく「音が大きくなったり小さくなったりするね」と言われる。それは力量不足というだけでなくて、そもそも僕はそういう音楽が好きだということでもある。

ジミヘンの『Little Wing』でのギターのダイナミクスと音色の変化は今も好き。

人はそもそもいびつだと思うから、そのいびつさを本当に余すことなく(それは尋常ではない厳しい生き方によってしか実現できないと思うけど)さらけ出せたら、美しいに決まっている。

その時、客観的な「美しさ」というようなものは屁でもなくなって、ただただ「美しい」だけ。

それが「つきぬけてくるもの」だし、そういうものに触れたときに僕は涙を流すと思う。


興奮して話がそれてしまった。

とにかく、僕にとってのモーツァルト的なものというのは「客観的な美しさ(を押し付けてくるもの)」で、ベートーヴェン的なものは「それだけが美しいという感じ」と言ってもいい。

そもそも併置することもできないくらい次元の違うことなのかもしれない。


そんなことを思った。


***



この日の夜はライブがあった。
場所はいつもお世話になっている扇町para-dice

タキイさん企画の「イイ夫婦の日」というイベントやった。

センテンスとしてはトップバッター。やれることをやったつもり。

共演者について、敬称略にて列挙させていただきます。



upper sixx








AUX(写真撮影できず、すみません)

この日、出演バンドが全て夫婦+αで構成されていた。

そのことによって、普段のブッキングではありえない共演になっていたと思う。

この日、演奏を終えた僕は、共演の人たちの演奏を聴きながら、メタファーとしての音楽ということを考えていた。


以前、このブログでこんな文章を書いた。
(「Vi-code・HARD RAIN・ネガポジでのライブを終え、快楽ベースで生きることについて書くwith梅酒。」)

この日、友人の米田量さん(『STAGE 1号』に作品を寄せていただいてもいる)がセンテンスを見に来てくださっていた。

上記のブログには書いていないけど、この日に米田さんから「畑はメタファーだ」という考え方を聞き、大いに刺激を受けたのだった。

僕の言葉で言うとこうなる。

僕たちが米田さんを通して教わった自給農というやり方では、畝と通路はどちらもとても大切なものだ。

畝はもちろん作物が育つ土壌であって、微生物や虫が生命の連鎖を行う場所である。定期的に鍬やスコップで裂け目を入れることで空気が通り、水はけもよくなり、微生物の働きも活発になる。そのことによって作物の育ちがよくなるし、たくさんの種を残す。

一方で、通路は僕たち人間が作業をするための空間であると同時に、次の畝の土が育つ場でもある。

僕たちの農法では農薬や化学肥料は使わないので、抜いた草や生ゴミを通路に敷いて発酵させることで、通路の土を肥やしていく。

作物が死に、新たな作物を植えるタイミングで、僕たちは畝を作り直す。その際に肥えた通路の土を使い、次の畝が豊かな状態で種や苗を待ち受けることになる。

このようなメカニズムを、畑というひとつのジャンル特有のものとして終わらせずに、自分にとっての生き方として捉え直すこと。
それが僕にとっての「畑はメタファーだ」という言葉の解釈です。

この日のライブのMCで少し話したけど、畝が舞台だとしたら、通路は日常。畝(舞台)だけに空気入れや土かけや草かけをしていても、新しい畝を起こす段になって通路(日常)がカチカチだと、次の作物を迎え入れる準備が整わない。

そもそも畝と通路という分け方も、人間がしているだけで、作物や草や昆虫や微生物にとっては関係がない。
にも関わらず分けずにはいられない僕は、どうせだったらその分別を意識しながらも、どっちも大事にしたい。


話は戻って。


「イイ夫婦の日」の共演者の演奏を聴きながら、僕にとっては音楽だってメタファーだと思った、というところでしたね。

実は昼間のコンサートでモーツァルトとベートーヴェンの曲の演奏を聴きながらなんとなく思っていたことではあったんやけど、きっと彼らの作曲活動も演奏も、彼らの生き様そのものやったんやろうな。

楽器の持ち方、客席への視線の向け方、立ち方、音の鳴らし方、言葉の選び方、声の出し方・・・どれをとってもその人の生き方のメタファーとして捉えられる。その集積としての音楽が、演者の生き方のメタファーでないはずがないと思った。

僕がセンテンスでギターを弾くとき、一番大事にしているのは逃げないことです。

こんな格好良く言うのは恥ずかしいし、やっぱり逃げてしまうこともあるけど、逃げないようにしようとしているのは事実です。

僕がギターを弾いていて「逃げた」と感じる時というのは、自分の世界に閉じこもり、さも感性豊かに何かを探り当て、とても難しいことをやり遂げている最中ですとばかりの表情で、お決まりのフレーズを弾く時、です。

こんなにも器用なことを、僕は気を抜いたらやってきました。
今でも、やっている時が多分、ある。

そういう弾き方が染み付いているということは、僕という人間の生き方がそういうものだったということです。

音楽はメタファー。

音楽が、演者の生き方を伝えてる。
そのことを僕は信じる。

全部、見えてるぞ。

本当は音楽に限らないと思う。

職業も、言葉も、メタファーや。

AというギタリストはBというギタリストよりもCという将棋士と近い戦いをしているかもしれない。

自分という人間がどうしようもなく持っているいびつさを余すことなくさらけ出せたら、それがどんな表現方法であっても、とても純度の高いメタファーになっているはず。

僕が自分の「逃げ」に気づいたのは、実はギタリストではなく、当時andymoriというバンドのボーカルだった小山田壮平さんの歌を聴いた時。

声の美しさや歌詞の面白さも魅力やったけど、僕が彼の歌に一番惹かれている理由は、「言葉がメロディーの力を借りて迫ってくる感じ」にある。

僕の勝手な解釈やけど、小山田さんは歌を歌っているというよりも、歌を話している。

リズムとメロディーとハーモニーの力を借りて、言葉を放ってる。

滑舌の良さとか、発声方法の上手さとかを超えて、彼の生き方が語られているから、それを受けるこちらはその姿に直面せざるを得ない。僕はそう感じてる。


これはまさに「つきぬけてくる」と一緒やん。


やっぱりこの文章をSTAGEとセンテンスの両方に書くことにして良かった。つながった。

不遜ながら、そのような「つきぬけてくる」と感じるミュージシャンに出会える機会は決して多くはない。

それは結局受け手である僕の受け取り方にもかかっているから、相性のようなものがあるんだと思う。

それでも、そういう出会いは、あった。
直接共演させてもらったこともあるし、ライブを見ただけの人もいる。

例えば高橋功亮さん
例えば病気マサノリさん。
例えばclassicus
例えばAL

「イイ夫婦の日」が夫婦という一本の軸によって貫かれていたとしたら、僕がこれらのミュージシャンに感じる一本の軸は「つきぬけてくる」というあくまで僕の主観なのだろうと、今は思う。

僕が心震えて涙を流すときは、客観的な美しさというようなものはどうでもよくなってるときだと思う。
というより、そんなものは邪魔でしかない。

以前このブログにこんな文章を書いた。
(「classicusとねじ梅タッシと思い出ナンセンス の「逃げてなさ」と言葉の響きについて。」)

ねじ梅タッシと思い出ナンセンスの演奏を聴いて泣いた僕は、彼らの生き様の「美しい」に触れていた。

彼らの演奏の美しさとかはどうでもよくて、彼らが美しかったし、そのことに涙を流すことで僕はその瞬間とても誠実に生きていたと思う。

身体というメタファーの純度がとても高くあった瞬間。止められない涙というのはそういうことやんね。


***


ものすごく長くなった。

とても楽しく書けました。


「小さなピアノコンサートとcarapace展示会」主催の皆さん、「イイ夫婦の日」主催のタキイさんはじめpara-diceのスタッフの皆さん、共演者の皆さん、見に来てくださった皆さん、いい日をありがとうございました。

写真はこの日、お店で飲んだチャイ。
このカップとお皿、昔じいちゃんがコーヒーを飲んでたのと同じやった。
見た瞬間にぶわっとじいちゃんの飲むコーヒーとタバコの匂いが蘇ってきた。
翌日はじいちゃんの月命日やった。



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次回ライブ予定

12月1日(木)
『ウタ エバ ミヤコ!!』
the hula hoops/Folking Poors(JAPAN)/センテンス 他

18:30 / 19:00  
¥1500 / ¥2000

12月21日(水)
影野わかば/アナログエイジカルテット/他
18:30 / 19:00

¥1800 / ¥2000


人と出会い、自分と出会う本、『STAGE』。

発起人である私、赤阪正敏が「つきぬけてくる」と感じる人に作品を寄せていただき、一冊にまとめたものが『STAGE』です。

2016年8月25日に1号が発売となりました。

ご興味おありの方は、

「お名前・ご住所・ご連絡先・ご希望部数・『STAGE』をどこでお知りになったか」

をお書き添えのうえ、 下記のアドレスまでメールでお申し込みくださいませ。

stage.live.info✩gmail.com(✩を@に変えてください)