こんにちは、まさとしです。
※この記事は『STAGE』のブログにアップされたものですが、内容的にこちらにも掲載したいものなので、転載します。
先日、STAGE1号の相談役としてお世話になってきた友人のそうくんと、同じく友人のなおちゃん・さとのさん、まゆ、僕とで半日を過ごしました。
STAGE1号がおかげさまで少しずつ、着実に多くの方に読んでいただけている中、2号についても気持ちが向かいつつあります。
今後、そうくんはもとより、なおちゃん・さとのさんにも何らかの形で2号に関わってもらうことになるかも知れない、ということも含めて、僕とまゆを形作るものたち、僕とまゆが大切にしている場所たち、僕とまゆが好きな人たちに触れてもらう時間となりました。もちろん全てとはいかないけど。
すごく楽しかったので、そのことについて書いてみることにしました。新鮮な気持ちのうちに。
そして、なやカフェゆうきさんと共通の質感を感じるバンドclassicusの1stアルバム「classicus is not like that」の1曲目、「君の家まで」についても、書いてみたいなと思っています。
さて、すごいボリュームになりそう。書けるんかな。
まずはホホホ座。
カバーが破れるほどサンプルを手に取ってもらってるんかなぁ。嬉しいです。
相変わらず「文学」のコーナーに平積みしてもらっていて幸福。
なおちゃんとさとのさん、のっけからテンション高く楽しんでいる様子で早速嬉しい。
僕がホホホ座を好きなのは、やっぱり店長の山下さんの頭の中が具現化されたような、肉感的なレイアウトなんだと思います。
もちろん全て山下さんの独断ではないかもしれないけど、身体性が感じられる空間でありながら多くのお客さんに愛されているというのは、とても希望が持てる。
店長の山下さんはお休みやったけど、スタッフの方が「先日こんな本を作って販売されている方がSTAGE1号を買っていかれましたよ」と教えてくださった。
三重県津市にあるカラスブックスという古書店があるようで、そちらで発行されているらしい。
最新号は30号やったけど、「綺麗ごとの先へ」というタイトルに惹かれ、28号を買った。
じっくり読んでみようと思う。お店にも来年に行ってみようと思う。
教えてくださったスタッフの方に感謝。
その足で青おにぎりへ。
1号の出演者である店主の青松さんに挨拶し、予約していたおにぎり15個を受け取る。
再びなおちゃんとさとのさんは店内の様子に触れて楽しんでいてくれていたように思う。
ポップも作ってすごくいいところに置いてくれている!嬉しいです。
青松さんは朝からずっとカウンター内というステージでLIVEをやり続けているようなおにぎりの握り方をする人で、僕は青おにぎりに行くときは舞台を見に行くような気持ちでいます。
ラディッシュやコリアンダー、ミントやディルなんかを収穫してクラッカーに挟んだり、ハーブティーにしたりしつつ、青おにぎり15個セットを食す。
激ウマ。
青松さんのおにぎりは全然格好つけてない。
多分青松さんはおにぎりがすきやけど、おにぎりを握ってる自分格好いい!とか、そういう感じじゃない気がする。
その自意識の部分を超えて、おにぎりと向き合ってるんじゃないか。下手したら戦ってるかもしれない、おにぎりと。
僕の「つきぬけてくる」は、そういう圧倒的に平和な闘争のようなものを湛えた人から感じられることが多い。青松さんのおにぎりは自意識を超えてる。だから響いてくるんかな。
普段畑では結構ストイックに鍬をふるったりしているので、こうして友達と一緒にご飯を食べて笑いながら過ごす畑タイムはかなり新鮮やった。
僕たちふたりはいくつかの仕事をしているけども、そのどれにも中心には畑がある、という感覚がある。
先日、センテンスのフリーペーパー『線と点』のイラストにしたこの絵でも、中心のTONEにあたるツマミはHATAKEになっている。
僕たちふたりのバランスを調整する役割が、畑という空間にはあると思う。
なやカフェは現在お休みし、奥さんや知人が代わりにあの場所を守りつつお店をされている。
ゆうきさんがなぜいまこの場所で家を建てているのか、とか、その具体的な作業内容を、ここで書くには僕の知識が足りなすぎるので省かせてもらいます。
僕としてはゆうきさんがなやカフェで恐ろしく美味しいパスタを作っている時と何ら変わらないしなやかな佇まいで語ってくれていたので、それでもう嬉しかった。
ちなみにこれは2015年12月のパスタ。
ゆうきさんの料理は自分の感覚と生活のリズムを起点として立ち上がってきているもの特有の圧倒的な説得力がある!美味しいに決まっている!という味をしている。なやカフェ再開を心待ちにしています。
久しぶりにゆうきさんに触れたことで、ここのところ僕の中にあった気持ちを、文章にしたくなった。
僕が今大好きなバンドにclassicusがある。
ドラムボーカル岡山健二さん・ベースボーカル村上淳也さん・ギター岡山靖史さんで構成される3ピースバンド。
このclassicusとゆうきさんに、僕は共通する質感を感じるんです。
ここからは音楽の話になります。ものすごく長くなるかも。わからんけど。
もともと僕はandymoriの2代目ドラマーとして健二さんのことを知った。
andymoriの音楽は圧倒的で、僕はボーカルギターの小山田壮平さんの歌声と言葉のセンス、メロディーに特に惹かれた。
それは新バンドALになっても同じで、彼の世界観には相変わらずつきぬけてくるものを感じ続けてる。
classicusは僕にとってandymoriやALのようにつきぬけてくるものを感じるバンドであり、しかもそれらとは違う方向から僕に訴えてくる音楽だから好きなんだと思う。
考えてみれば、「つきぬけてくるもの」というのは客観性を孕んだ主観、「超主観!」みたいなものだと思っているので、一人一人が生み出すつきぬけてくるものというのは、全て違う方向から届いてくるものであって当然やと思う。
classicusは12月7日に1stアルバム「classicus is not like that」を発売していて、その1曲目の「君の家まで」という曲が特に素晴らしい。
ダンダンダンダンダンダンダン・・・とわかりやすいリズムが近づいてきて、一瞬のブレイクの後にとてもシンプルで抑え目なイントロダクションが短く演奏される。
すぐに健二さんの歌が入る。
今はちょっと古くさいかもしれないけど伝えたい歌
引用:「君の家まで」 classicus
この一文がclassicusのことを指しているのかどうかわからないけど、僕はそう思って聴いている。
classicusは3ピースバンドで、曲のアレンジもものすごく変なことをしているわけじゃない、とても潔く格好いいバンドだと僕は思っている。
それは裏を返せば「古くさい」という捉え方もできるかもしれない。
作詞作曲の健二さんがclassicusのことを自虐的に宣言したものだとしても、僕はこの一文に希望を感じる。
「今はもう」ではなく「今はちょっと」古くさい、のであれば。
僕は子供の頃から、「もうそんな時代じゃない」という言葉を聞くたびに、過去何百年の間、世界中で何回こういう言葉が飛び交ってきたんやろうと思い、自分が何処へ行くべきかわからなくなる、ということがよくあった。
流行というものに積極的な意味を持てないまま、自分が好きなことだけをやって生きていきたいと思うようになったことの要因の一つだと思う。
時代は巡る、という言葉を聞くたびに安心感を覚える僕は、健二さんの「今はちょっと古くさいかもしれないけど」と言う前置きとともに宣言される「伝えたい」に全面的に応えたくなる。
classicusの音は不思議で、一人ひとりが自己主張しすぎることがないし、奇抜なエフェクトをかけることもないから、形としての派手さはないように感じる。
そんなことよりも、健二さんと淳也さんと靖史さんが「自分自身でありながら勝負する」ことから逃げてない(ように感じる)から、音の輪郭はくっきりと僕に届くんだと思っている。
話は戻るが、ゆうきさんの生き方はまさにそれと同じ感触がある。
以前直接聞いたお話やけど、若い頃、人と関わりたくない、社会で働いていきたくない、という思いに忠実に自分の生き方を模索する中で畑と出会い、なやカフェという空間を作り上げたゆうきさん。
そのゆうきさんが、たくさんの人に愛される料理と時間を提供し、今は仲間と共に一から家を建てている。
詳しくは書かないけど、そのことによって喜ぶ人がたくさんいることを僕は知っている。
自分の中にある性(さが)や業を捨てずに、時に逃げながら時に立ち向かいながら、なんとかそれを社会に接続するという生き方。
という記事を書いた。
立川談志の「落語とは、人間の業の肯定である」という言葉に込められた思いは、人間に対する優しい眼差しに溢れていると思う。
ともかく、こういう「業の肯定」を僕はゆうきさんに感じるし、classicusに感じる。
ゆうきさんのパスタは麺を打つところから始まり、その日畑で採れた野菜や、時に罠で捕まえた鹿の肉によって味も色も食感も香りも彩られる。
1時間以上の時間を超えて目の前に置かれるパスタに、ゆうきさんの業を感じる。なやカフェはゆうきさんの業の肯定のひとつの方法であろうし、今取り組んでいる「一から家を建てる」という仕事も、そうに違いないと思う。
なんといっても山に生えている木を切って木材を組み合わせたり、基礎となる柱を一本一本、自分で作った鋳型にコンクリートを流し込んで埋め込んでいるんやから。
そういうことを、また別の場所でも家の内装・外装の仕事を請け負ったり、畑をやったりしながら日々続けている。
こういうことを、「ゆうきさんはすごいなぁ」じゃなくて、「ゆうきさんという人の業の肯定」の振る舞いとして捉えて、そのことに敬意を払い、「さて、じゃあ俺は/私はどうする?」という起点に立つことしかないと思う。
STAGEはそういうことのためにある本だと思っている。
僕の中にある業は、今こうして、日々の仕事の合間を縫って、とにかく好きな人・好きな音楽・好きな場所・好きな食べ物について、好きな「言葉」というものを使って形にすることによって肯定されていると思う。
別に文筆家じゃないし、文章で直接お金を生み出しているわけじゃないけど、STAGEを出版して、センテンスでギターを弾き、カオカキで人の顔を描き、つきぬけてくるものたちに触れて感動し続けていくために、僕にはこのブログが必要なんです。
ゆうきさんとclassicusの持つ共通の質感について書いて、結局自分のことになる。仕方ない、僕なので。
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ここのところゆうきさんとclassicusのことを書きたかったんやけど、なかなか踏ん切りがつかなった。
それを、こうしてそうくんとなおちゃん、さとのさんとの時間を過ごしたことで、書く事につながった。
STAGE2号がどんな形でどんなタイミングで形になるかまだわかりませんが、そこに向けて日々生きているので、僕が生きている限り出版できるはずです。
それまで楽しみにしていてください。
まさとし
ホホホ座のスタッフの皆さん、青松さん、ゆうきさん、そうくん、なおちゃん、さとのさん、ありがとう。
※写真:田中聡
※写真:田中聡