2016年12月8日木曜日

西院ネガポジにて、ゆ~すほすてるさんとthanを観る。「美しいことと強いこと」、身体と音楽の関係性について考えたこと。


こんばんは、ギターのまさとしです。

先日は西院ネガポジにて、ゆ~すほすてるさんとthanのライブを観に行ってきました。
今日はそのことについて書いてみたくなったので書いてみます。

最近、僕たちが発行しているインディペンデント雑誌『STAGE』のブログとこのブログに、日々感じたことを言葉にすること、それを読んでもらうことがとても楽しいです。

この日は他の出演者さんもいたんですが、特に印象に残った2組についてだけ書きます。

※写真は先日行ったみかん狩りのものです。





彼とは何度か対バンさせていただいたり、ライブを見に行かせてもらったりしている。

僕は彼のメロディーと独特の絞り出すような歌声が好きです。
HPを見てみると、おそらく意識的に「ネガティブ」な思いを歌詞にしているのかな、と思うのですが、僕にとってはそれよりも彼の「音」の方に興味があります。

今回のライブではアコギに歪み系のエフェクターをつないでいて、それも彼の音楽に合っているなぁと思いました。

ギターの歪みといってもいろいろありますが、ちょっと強めで粗めの歪みって、弾き方によってはすごく悲しい感じがするなぁ、とよく思うのですが、彼の音からはそう言う印象を受けました。

たとえばマイナーコードよりもメジャーコードを思いっきりジャーンッと鳴らしたほうが切なく聴こえることがあるように、それは吹っ切れた感じの裏側にある哀しみみたいなものなのかもしれません。


それから、彼の舞台を見ていていつも思うのが、歌を歌っている時とMCをしている時の居方が全然違うな、ということです。

僕にとっての彼は、断然歌を歌っている時の方が輪郭がくっきりして見えます。その理由は、と考えて思い浮かぶこともあるにはあるのですが、どうも確定的なことが言えないでいます。
それについては引き続き考えていきたいのですが、一つ言えるのは、彼は歌っている時にこそ、自分に集中し、自分をさらけ出しているんじゃないかな、ということです。

(よく知らないのに色々言ってしまっていますが、お許しください)

僕は、自分によく言い聞かせていることですが、できるだけ自分のことに集中することと、自分をさらけ出すことが、「強いこと」なんだ、と考えています。

舞台に上がり、人に観られ、聴かれるのは怖いことです。恥ずかしいことです。
その時に、自分の外側ではなく、内側に意識を向ける。
すると、たとえば表情がふっと消えます。
表情が消えるというのは変な表現かもしれませんが、いわゆる「外向けの表情」が剥がれて、もともとの顔が出てくる感じがします。

表情って、表(おもて)の情なので、多分外に向けるためのものなんだと思います、基本的には。

表情が消えた人を観る機会はそうそうないので、それを見ているこちらは、グッと惹きつけられてしまう感じがします。

そして、そうして自分の内側に向かっている人というのは、当然無防備になるので、顔だけじゃなくて、身体の使い方や声や言葉などからも「表情」が消えていきます。
それが自分をさらけ出すということ。

無防備な人というのは、ある意味一番不気味で恐ろしく、美しいです。

美しい存在にはおいそれと触れられない感覚、畏怖の念のようなものが湧いてきて、僕は魅入ってしまう。

僕は子供の頃から「強いこと」「弱いこと」という概念に悩まされてきたのですが(それはまた別の機会に、いつか書けたら書きます)、「美しいということが強いということ」、ということにおいてはとてもしっくりとくるものがあるんです。

彼の舞台を観て、そんな事を思っていました。
ゆ~すほすてるさんの生き方そのものが興味深くて、これからも聴きたいなと思っています。


次は、than



ギターボーカルのキタさんとは、ソロの時に対バンさせていただいたり、ライブを観に行ったことがあったりしたのですが、thanというバンド形態で観たのは初めてでした。

キタさんのギターは、「ギターは弦楽器だ」ということを改めて認識させる音。
身体的に快感を覚える音です。

僕がギターという楽器を好きな理由の一つは、「ピンと張った細い糸をかきむしりたい」という僕自身のチックを満たせるからなのですが、そういうところが間接的に満たされます、キタさんのギターを聴くと。

キタさんだけでなく、ドラムのTarooさんの音も良く、「流して叩く」感じがなくて、好きなドラマーだなぁと思いました。

classicusとねじ梅タッシと思い出ナンセンス の「逃げてなさ」と言葉の響きについて。という文章に、流して演奏することについて書いていますので、こちらも読んでもらえたら嬉しいです。


ダンスの赤子さんの存在が僕にとっては興味深かった。

僕は数年間、何人かの身体表現家の人たちとコラボして即興パフォーマンスをしてきた経験があり、音と身体の関係性については少しだけ思うところがあったのです。

この日見た赤子さんのダンスは、僕が共演させていただいたダンサーや舞踏家の方たちとは違っていました。

僕はダンスについて全然詳しくないのですが、その違いというのは流派や系統ということではなくて、「所属の仕方」の違いと言ったほうがいいかと思います。

赤子さんはthanの一員として、音楽していました。

そう感じた理由の一つは、赤子さんが下手(舞台に向かって左)の位置を守り、基本的にその場所を逸脱することがなかったからです。

身体表現家は演奏家よりも場所の制約から自由なので、舞台を広範囲に動き回ったり、舞台から降りて客席で踊ったり、ということがし易いと思うんです。

実際にそういう舞台を観たことがあるし、僕が共演させていただいた時にそういう表現をされるダンサーはいました。

それに加えて、赤子さんがとても音楽的な身体表現をしていると僕が感じた理由は、曲とのシンクロ率の高さです。

僕がたまたまそういうダンサーの方々と縁があっただけなのか、もしくは僕がやっていたことがいわゆる即興だったからなのかわかりませんが、彼らは僕の音に対して「反応はするけどシンクロはしない」という印象がありました。

なんとなく、暗黙の了解で、「リズムは合わせない」とか「激しい音だからといって激しい動きをしない」というような雰囲気があったように認識しています。
別にそういうことを話し合ったことはなかった気がしますが。

それは僕にとっても言えて、ダンサーの動きに対して必ずしも「よく合う」音を鳴らそうとはしていなかったように思います。

thanの舞台はインプロのような時間もありましたが、基本的には曲を演奏しているわけで、赤子さんも当然それらの曲の構成を把握しています。
なので、例えばBメロからサビへいく瞬間、音とリンクして、それまでの動きからガラッと違う動きに移行することが多かったように思います。
しかも、サビでは大らかな動き、静かなブリッジでは抑えた動き、というように、積極的に音楽と同調している印象がありました。

もう一つ。
赤子さんの動きは、音を邪魔するものではないように感じたのも、理由の一つです。

長野県の松本にあるヴィオ・パーク劇場で毎年開催される『ヒトリ主義Night』というイベントがあり、ほぼ毎年、僕は何らかの形で参加させていただいてきました。

そこで共演させていただいているデパートのかいじんというバンドがいます。

彼らはベースボーカル・ギター・ドラムと「踊りのような者」の下Gさんで構成されています。

僕は彼らの舞台をそれほどたくさん観たわけではないのですが、僕の印象では下Gさんの動きは、どちらかというと音の間を縫って染みわたり、ある意味で音を壊すような、音と対決するようなもの、という印象があります。

thanの舞台を観ていて、デパートのかいじんと対バンしたら面白いやろなぁと思っていました。

終演後、キタさんにそのことを伝えると、「センテンス企画でやってや」と言われたので、いつか実現させたいと思います。

than、どんどん変わっていくと思うので、また観たいバンドです。


***


ゆ~すほすてるさんとthan。

いいライブをありがとうございました。また観に行きたいと思います。


センテンス まさとし


【今後の予定】

12/21(水)BEARS(大阪)
「暗闇浪漫。」
影野わかば/アナログエイジカルテット/センテンス/他 18:30/19:00 1800/2000

1/17(火)ネガポジ(京都)
「平日ノーチャージデイ」 狸囃子/まるで自宅のように/センテンス OPEN 18:30 / START 19:30 adv.free yen door.free yen

お取り置きはsentence.info✩gmail.com(✩を@に変えてください)までよろしくお願いします。