こんにちは、ギターのまさとしです。
前々回のGROUPエンペラーめだか、
前回の渚のベートーベンズ
に続いて、今回はネガポジと縁のあるミュージシャンのライブを立て続けに見たシリーズの最後、一文字風平(いちもんじぴゅーへい)さんについて書きます。
一文字風平さん。
風平さん企画「『銀河列車でどこまでも』Vol.1 月面ランデブー」より。
風平さんは詩人だと思う。
僕は風平さんと出会って長くないし、たくさんの言葉を交わした訳でもない。
そして僕は詩人や詩というものに多く触れてきた人間でもない。
それでも風平さんを詩人だと感じるのは、僕が自分自身を何にもない人間だとどこかで気付いていて、でも認め切るのも怖くて、諦め切れずにギターを弾いたり絵を描いたりこうして言葉を書いたりしている過程で、自分のことを「僕は最後は言葉を頼りに生きるやろうな」と思い、そうしてなんとかかんとか言葉というものに自分の居場所があるんじゃなかろうかと願うことがそのまま言葉というものへの愛着・執着になっていて、そんな僕が人と関わる時に最初に興味を持つものの一つが相手が使っている言葉で、風平さんの歌には彼の言葉に対する誠実さと遊び心が僕にはっきりと感じられるから。
風平さんの歌詞を全部把握している訳ではない僕が言うのもなんやけど、風平さんの歌に乗って届いてくる言葉には不思議な存在感がある。
ジュンサイっていう、汁物にはいっている透明のバリヤーみたいなのを纏っている水草。
あの感じ。
食べ物を食べる時、舌の上に乗せて、例えば鳥の胸肉ならその形と重さと感触を舌や歯で感じながら、クチュッと噛む。
食べ物にはそれぞれの性質があって、意識してないけどいろんな食材によって人間は噛み方を変えている、と思う。
ジュンサイは小さいし形も明確じゃないし、比較的軽い、そして弾力がある。
だから舌の上で遊ぶ。
あの感じに似た言葉の使い方をする人はあまりいないと僕は感じる。
言葉には時代や国やジェンダーや社会的地位・・・いろんな力が多方面から働いているから、完全にニュートラルな言葉はあり得ないと僕は思っている。
その中で言葉をどう使うかは各人に任せられていて、そこに人の生き様が現れる。その現れ方を見るのが僕は好き。
僕は風平さんに、一方向に寄った、痩せた意味しか持たないような使い方をしたくないという意思のようなものを感じる。
センテンスは二人とも小山田さんのことが好きで、勝手に風平さんと小山田さんに共通するものを感じていたから、嬉しかった。
以前描いた小山田さんのカオカキ。
僕は小山田さんと話したことがないので、小山田さんのことを風平さんのこと以上に分かっていないと思うけど、風平さんのタンブラーに乗せられた「そさいえてぃ」という文に、二人に共通するものを感じたので、以下に一部を抜粋させていただく。
(「そさいえてぃ」 2015.07.02より引用)
以上。
風平さんがどういう思いでこれを書いたのか僕には分からない。が、この言葉に触れると、風平さんの言葉の持つ意味の豊潤さ(「痩せた意味しか持たない」の逆)によって僕は自由になる。
そういえばジュンサイって、それそのものにはあんまり味がないから、こっちも自由に食べられる気がするな。
威圧感を与えない大きさで、いつも同じ形をしていなく、軽やかで、弾力がある。
触れた人を自由にする存在。
風平さんと小山田さんとジュンサイに共通する質感。
この文章を書いて、風平さんのことも、小山田さんのことも、ついでにジュンサイのことも前より好きになっている。
僕はこうして自分を言葉にすることで自分の中に風が通る。
魂が呼吸する。
風平さんの歌は僕を自由にしてくれる、ということを言葉にすることで僕は呼吸ができた。そして僕はまたひとつ自由になった。
この文章を読んで少し呼吸ができるようになる人がいればいいなと思う。
風平さんがぴゅーへいさんの名を持つ理由が僕の中に出来た。
ありがとう風平さん、小山田さん、ジュンサイさん。
〜センテンス今後のライブ予定〜
- 4/30(日)梅田HARD RAIN
- 5/28(日)「いつまでも世界は…」フリースペース