こんばんは、まさとしです。
まず、写真は先日訪れた四日市の「カリー河」のカレーです。
美味しかった。四日市に行くたびに訪れる事になると思う。
弱さから生まれた強さの話、について、ここ数日のことに触れながら書きました。
後半はもうどんどん自分の話になって言ってものすごく長くなったので、気持ちが続く人だけ読んでください。
前半は音楽の話です。
内田修人さん
先日、僕がギターを弾いているバンド、センテンスにとって音楽友達の内田修人さんのアルバム「ばくはつ」のレコ発イベントに行った。場所はネガポジ。
ほかの出演者もよかったけど、今日は内田さんについて書きたい。
内田さんとは縁があって、センテンスがもっと拙い時から対バンしている。
僕からしたら、その時から内田さんのギターは上手い。
内田さんは靴の修理をされていて、普段履いている靴も綺麗。
服装や髪型や顔立ちも整っている。
内田さんのギターを初めて聴いた時に、「ギターの演奏ってその人そのものやな」と思ったのを覚えている。
そして、確かそのことを内田さんに伝えたと思う。
ギターに限らず、なにかに取り組んでいる時、人はその取り組みと一つになっている。
それがギターなら、内田さんと内田さんの鳴らす音は、同じである。
同じであってほしい、という思いが僕にはある。
そこにチグハグさを感じると、僕はどうしてもその音楽を聴いていられなくなってしまう。
その感覚が客観的に正しいかどうかは知らんけど、僕はそうなってしまう。
取り組んでいる人と取り組んでいるものが違うというのは、なんかすごく気持ちが悪い。
僕にとって、この文章を書くことが僕自身と同じであってほしい。
内田さんのアルバム「ばくはつ」も、内田さんやなぁと思った。
僕が内田さんのことをなんでも知っているわけはないのだが、内田さんの丁寧さや静かさ、内側にあるねじれや熱さみたいなものが閉じ込められている気がした。
1曲目から「汽車はまるで」という代表曲(だと僕は思っている)が始まったから、僕は「あ、闘っているんだな」と思った。
内田さんの曲は、僕にとってはとてもすっきり・きっちりしている音楽という印象で、それはやっぱり靴の修理業という、ある種の「職人感」を持っている人だからできるものだと思う。
気分や体調など、色々と波はあるだろうけど、いつ聴いても形が整っている。
でも、その奥にバタバタと暴れている思いみたいなものがあって、それが溢れ出しそうになっているけど溢れはしない、というバランス。
溢れそうな感情は、ギターよりも歌の方に強く感じられるような気がする。
そういうものが内田さんのライブからは感じられるし、「ばくはつ」にパッケージングされていると思う。
(「ばくはつ」はこちらから購入可能です。また、youtubeで全曲無料配信もされています。)
※ちなみに今の僕のお気に入りは「たいくつ」
GROUPエンペラーめだか
内田さんのレコ発イベントで内田さんの隣でドラムを叩いていた橋本ゴウさんと知り合い、四日市で「ドレミファといろは」というライブハウスを営まれていると聞いた。
そして、ネガポジの店長であるしゅうさんのバンド、GROPUエンペラーめだかが翌々日にドレミファといろはに出演するということを知った。
しゅうさんは僕たちがネガポジで同じくお世話になっているPAのえぞえさんと共に、センテンスに色々と意見やアドバイスをくれる人。
だから、しゅうさんのバンドを聞いてみたいなと思っていた。
そうしたら、愛知県に行く用事がちょうど出来、四日市にも行くことができるな、という流れになった。
ドレミファといろはは、ゴウさんにとって大切なファミコンと漫画に囲まれた空間やった。
ゴウさんは僕とそれほど年齢が変わらないから分かるけど、僕が子供の頃、漫画とファミコンっていうのは、親が喜ばないものの代表やった。
僕は小~中学校の9年間、ひきこもりや不登校ではないけど、とにかく1秒でも長くファミコンをしていたかった。
ファミコンをしている時間に育まれた僕の人間性というものは、未だに僕を支配している。
そのうち僕はファミコンがギターに変わっていたけど、ゴウさんにとっては、それが今も大切なものとしてあって、それをそのまま「空間」に変換してライブハウスの一部として社会に位置づけている。
それはとても美しいことだと思う。
GROUPエンペラーめだかはドラムボーカルのN.S.G.さんとの2人組。ギターの轟音で場を好き放題に整えてから始まった。
しゅうさん、というかエンペラーめだかさんのギターからは、いわゆるギター的な手法や技法よりも「音を鳴らすための機械」に触れる人としての真剣さが感じられた。
僕はああいうふうには弾けない。昔、身体表現家の人と即興パフォーマンスをしていた頃があったけど、結局ギター的な文法から自由になることは出来なかった。
こういう時はスライドで入る、とか、チョーキングしたあとビブラートをかけて、とか、そういう決まりごと・お約束から離れようとすればするほど、その無重力感に不自由さを感じてしまい、しんどくなった。
エンペラーめだかさんのギターや歌は、いい意味でもっと子供みたいな、約束事をすっとばす音だった。
この日買った音源「夢見るエンパイア」の音作りもやっぱりそんな感じがした。
1曲ごとにギターの音色が違っていたり、音質や音量も違っていたりする(多分)。
そういうことって僕はあんまりできなくて、できるだけおんなじ音でずーっと弾いていたい。
ちょっとクラップユアハンズセイヤーの「some loud thunder」とか、ワイルドハーツの「Endless Nameless」を聴いた時を思い出した。(音楽性とかじゃない)
いい意味で「一筋縄では聴けない感じ」があって、それは僕にとってのエンペラーめだかさん・・・というかしゅうさんの人柄と同じだなぁと思う。
内田さんとしゅうさんはもちろん違う人やけど、人に心を開くのが苦手な僕が信用する人という点で共通していて、それはやっぱり「人と音楽が同じ」人だということだと思う。
(「夢見るエンパイア」はこちらから買えます。)
※今の僕のお気に入りは「あとは眠るだけ」
弱さから生まれた強さの話
前述した愛知県に行く用事、というのは、愛知県に住む農家の御夫婦の奥さんが亡くなられたことを知り、挨拶に行くことだった。
僕たちが自給農という方法で畑をしていることや本を出版していること、そもそも自営業で生きていくということなど、いろんな話をさせてもらった。
初めて出会ったのが昨年の9月だった。
無農薬で作られたお米を買わせてもらって、すごく美味しくて、それから知人の分も含めてなんども買わせてもらった。
みかん狩りも手伝わせてもらった。
買わせてもらったお米を精米しているところ。
このお米をこれからも食べていく限り、彼女と旦那さんは僕の中にいる。
お仏壇の前に行ったら、明らかに気配を感じた。
僕は霊感とかないし、霊という存在の定義がそもそもグラグラで全然わからないのだけど、確かに彼女の存在を感じた。僕は彼女と最後のお別れをした。
旦那さんと娘さんとお孫さんがいた。
良かったな、と思った。
命が繋がっている。
強いということ、弱いということは、どういうことなのだろうか。
僕はずっとそういうことから距離を置いて生きてきた、と思ってきた。
でも、人一倍そういうことにこだわってきたのだった。
自分が弱い人間だとという事実に直面するのが怖くて、「強くなろう」とせずに生きてきた。
強い・弱いが判別されるような状況に極力立たないように。
「男は強くなくてはいけない」というメッセージを、子供の頃から何度も何度も浴びてきた。言葉でも、雰囲気でも。
思えば僕はすぐに泣く子供やった。
悲しかったり悔しかったりしたらみぞおちが押し上げられて、息が苦しくなって、鼻が痛くなって涙が出た。
その度に「赤阪(本名)泣いた!」と言われるし、自分でも自分を責めた。
泣くことは弱いことだという意味付けにも、社会の構造を保つ意味はあるだろうと思いながら、泣く機能が備わっていながら泣かないほうがいい、という世界に生きていることが腑に落ちず、「僕が弱いからだ」という動かしようのない事実から逃れるためには、感情が揺さぶられない場所に行くしかなかった。
人とあんまり関わりたくなかった僕には絵を描いたりファミコンをしたり部屋でギターを弾いたり音楽を聴いたりする時間はとても大事なものになった。
僕は自分が男であること・男である以上強くなくてはいけないということ・自分は弱い人間であるということ、について落としどころを付けられないまま、男らしさや恋愛というものから置き去りにされているような感覚を持って生きてた。
その上で、僕が学生の頃はすでに男女平等についていろいろな議論が交わされていた頃で、場合によっては男であることそのものが悪いことだと言われているような気がしてしまうこともあった。
そのうち、「男である以上強くなくてはいけない」に加えて「男であってはいけない」というメッセージまで受けているような気がしてきて、恋愛やスポーツ、下ネタを話す場など、自分が男であることを自覚しないといけない場所を避けるようになってしまった。
「弱さから生まれた強さの話」というのは、僕が数年前に作ったSTRINGSという曲の歌詞の一節で、自然と生まれてきた言葉。
この言葉がずっと僕の中に残っていて、先日なくなった女性のことを、旦那さんと娘さんと話している時にまた降ってきた感じがしたのだった。
死ぬことは弱いのか。
生きることは強いのか。
負けることは弱いのか。
勝つことは強いのか。
男であることは強いのか。
女であることは弱いのか。
泣くことは弱いのか。
笑うことは強いのか。
強い・弱いという概念がなくなればいいのに、と思って生きてきた。
それは強い・弱いという概念に人一倍こだわっているからでもあった。
もっと、根源にあるものに触れたい。
新しいものを見たい、と思った。
内田さんには内田さんの、エンペラーめだかさんにはエンペラーめだかさんの、ゴウさんにはゴウさんの、僕には僕の種がある。
種は、命の形みたいなもの。
ナスの種からカボチャはならない。
ナスであることから逃げずに、ナスとして根と茎を伸ばし、葉を広げて実る。
ナスの種とナスの実は同じ。
人と音楽は同じ。
そういうものに触れたいと思っている僕自身が、自分であることから逃げているのは不義理だと思った。
自分の弱さがあるのなら、それを「作品」として(このブログも含めて)出していくことで、それが人の目に触れて叩かれたり撫でられたりして、ある種の強度を持つようになる。
強さっていうのはその強度のことかもしれない。
強さの意味から強さの度合いへ。
そうしたら楽になる気がする。
客観と主観のダンス、ということを『STAGE1号』に書いた。
客観性を意識して、勝手に苦しんできたから、僕にとってはもっともっと主観のほうに重心を置いていきたい。
弱さの強度が高くなることが、強くなること。
弱さから生まれた強さの話。
まさとし