2017年2月3日金曜日
AL/classicus/西洋彦に共通するものについて。「自分であることを守る強さ」と「つきぬけてくる」ことの関係について。
こんにちは。ギターのまさとしです。
ふと、ALとclassicusと西洋彦に共通するものについて、というタイトルでブログを書いてみたくなりました。
ALの『心の中の色紙』とclassicusの『classicus is not like that』と西洋彦さんの『ふるえるパンセ』は、僕たちがドライブをするときにずっとかけている3枚です。
ALのシンガー小山田壮平さん、classicusのドラムボーカル岡山健二さん、そして西洋彦さん。
この3人の歌声を聴いて、僕は自分が置き忘れてきたものを彼らが持っているような気持ちになります。
それは「自分であることを守る強さ」と言ったらいいのかな。
そういうものを彼らから感じます。
今日はとにかく3人の歌や声について、をメインに書こうと思います。
小山田さんはandymoriの頃から好きでしたが、ALになってますます好きになりました。
andymoriの1stアルバムの頃の歌詞は抽象的で難解、メロディーも時にはまくし立てるような、言葉の意味と感情に引っ張られるようなものもあり、その勢いに圧倒されたのですが、classicusの岡山さんがandymoriにドラマーとして加入してからのアルバムでは歌詞もメロディーもぐっとシンプルになっていき、ひとりの人間として戦おうとしている意思を感じるようになりました。
その流れがALにもあるように感じて、とにかく自分の人生を引っさげて戦っている戦士のような印象を持つようになっています。
でも、音楽を楽しんでいる様子もあって、そのバランスが素晴らしいなと感じています。
ツヤのある声をまっすぐ、平易な言葉を正確に、届けてくる。
当たり前のことがちゃんとできる人。
自分の弱さやズルさも見つめてさらけ出している人にしか歌えない歌だと感じます。
classicusのアルバムを初めて聴いたとき、不思議な感じがありました。
どうしても関係性的に比べてしまう小山田さんの歌声と違うのに、似ている、と。
その「似ている」は、今になって思えば歌声が似ているのではなく、上で書いたような「自分であることを守る強さ」が似ていたのだと思います。
岡山さんの歌声は、少し鼻にかかっていて優しく、丸い。
言葉を話すように歌う。
例えば雨宿りしている軒先で会話をしているような、雨音にかき消されないように、でも雨の湿り気や涼しさも壊さないボリュームと質感を持った声。
そんな印象。
西洋彦さんは僕たちセンテンスと同じく京都に住むシンガー。
すこしだけしゃがれた、少年みたいなヒリヒリした声で言葉を置いていく人。
フォークソングというものをほとんど通らずに過ごしてきた僕やけど、この人の歌はとても自然に入ってくる。
多分ジャンルミュージックとしてフォークソングっぽいということだけではなくて、この人の在り方がフォークソングというものなのかもしれないな、と、フォークソングを知らないのに思ってしまう。
そして、フォークであることはロックであることとも似ていると思う。
小山田さんも岡山さんも西さんも、自分であることを守る強さを持っている点で、フォークでありロックであると思う。
僕は先日、インスタグラムやフェイスブックに書いたことやけど「自由であるために、自由であらねばならない」というような言葉が自分の思考・行動に影響していることに気づいた。
「自由」という言葉に「ねばならない」という言葉がひっついているのも可笑しいが、それよりも、「自由であるための自由」というものがあると認識していたことに自分で少し驚いた。
まるで自由に段階があるみたい。
そして、段階がないとしたら、上の文章は意味を成さない。
どちらにせよ、これはバグ。
バグが存在することに気づくのはとても難しい。
人と話したり、言葉を読んだり、絵を見たり。
音楽を聴くのもその一つで、自分の中にあるバグに気づくキッカケになることがある。
小山田さんと岡山さんと西さんの歌は、それそのものが自由だと思う。
ご本人たちがどう感じているのかは知らない。
ただ僕には、3人声と言葉が正直で、メロディーが身体的だと感じる。
自分であることしかないんや。
自分の思想の輪郭や手触りを全部見ようとする勇気・執念みたいなものが彼らにはある気がする。
社会を効率よく回すためのシステムや指標を安易に利用しないこと、と言えばいいんかな。
皆それぞれの事情がある中、それぞれのかたちで「音楽を生きる」という人生を選んでいる。
美しい、と思う。
社会を効率よく回すためのシステムや指標は大事やけれども、それそのものには命はない。
それを利用して自分が自分であり続けることに意味がある。
繰り返し繰り返し『STAGE』のブログで触れている「つきぬけてくる」という感覚もそのことやなと思う。
つきぬけてくる音楽というものがあるとしたら、それはその音楽を鳴らしている人が、ライブハウスとやり取りして舞台に立つことや、CDを録音して販売すること、SNSやwebサイトで情報を発信することなど、システムや指標を利用しながらも、逆に利用されることなく「自分であることを守る」ことをやっている、ということだと思う。
「つきぬけてくる」は「つきぬける」ではない。
よく勘違いされるけど、違う。
つきぬけて「くる」と感じる主体が必要で、それが僕なんです。
「つきぬけてくる」という言葉を話す(僕という)存在がいて初めてその言葉は意味を持つ。
主観的なものなんです。
小山田さんが、岡山さんが、西さんがどんなにすごいシンガーであろうが、それとは直接関係なく、僕にとって強固な社会のシステム=「普通」を利用しながらも「自分であることを守っている」という在り方を突きつけてこられた僕に起こる現象、それが「つきぬけてくる」。
僕の中にある「それが普通やから」という思考の自然法則みたいなものがぶっ壊されるような、でもそれと同時に、ざわざわしていた心の小波が凪いでいくような、そういう感覚を覚えて、生きていることを思い起こさせられること。
そういうことが起こるたびに生きててよかったと思ってきた。
今年は僕が僕にとって、そして誰かにとって「つきぬけてくる」人間でありたいと思うようになった。
そういうことを言葉にしてもいいと思うようになった。
僕はセンテンスではシンガーではないけど、自分の言葉を自分の身体を使って伝えていくという意味では、『STAGE 2号』の出版も、ブログを書くのも、畑で獲れた作物の味を伝えるのも同じだと思う。
もちろん、ギターを弾くことも。
同じ時代に生きている良いシンガー、ミュージシャンの生き様を見つつ、自分であることを守っていきたいと思う。
まさとし