2016年10月22日土曜日

classicusとねじ梅タッシと思い出ナンセンス の「逃げてなさ」と言葉の響きについて。

先日、京都の二条nanoで行われたハートたちというバンドによる「愛のワゴンツアー」を見た。
出演しているバンドはそれぞれによいバンドだったが、特にclassicusとねじ梅タッシと思い出ナンセンスという2バンドに触れながら、思うことを書きたい。

というか、このライブを見る前に思っていたことがいろいろあったのだけど、全部忘れてしまった。それくらいいい日だった。

初めて植えたホワイトセージ。世界に根を張れ。


andymoriの二代目ドラマーだった岡山健二さんがドラムボーカルを務める3ピースバンド。
以前もライブを見た事があったけど、この日はメンバー3人の音の輪郭がはっきりとしていて、消し合わずに鳴っているように聞こえた。そして、3人とも一切「流さない」演奏をしていたことが印象的だった。

僕は気を抜くとすぐに流して演奏してしまう。深く考えたり感じたりすることなしにできるパターン化された動きでギターと関わってしまう。

そういうことをしている時、その人の目は少し輝きを失うように思う。そして出る音からは記名性が消える。僕がそういう音を聞いている時、僕の身体は今ここから離れて、生きることそのものを流してしまう。とても退屈になる。

そういうことが先日のclassicusのライブにはなかった。

それは曲そのものにも言えて、classicusの曲は丁寧にアレンジされていると感じるけども、決して弄られすぎて熱を失っているような事がない。
あくまで「今、鳴ってる!」と感じる。

だから、ある意味で「失敗」がない。
もちろん、演奏上の失敗が起こる事はあるだろうけど、その曲と出会っているまさに今の聞き手にとってはそれがすべてで、そのすべてにメンバーが全力で向き合っている事がはっきりとわかるから、そこに不足がない。ありようがない。


nanoの店長のモグラさんから以前おすすめされていたバンド。

ライブを見ながら泣いてしまったのは久しぶり。

classicusとはまた違う意味でメンバーひとりひとりの音が独立して存在していた。classicusの3人の音がクリアで輪郭がはっきりとしているという良さがあるとしたら、ねじ梅の4人の音はむしろ混ざり合って溶け合っている良さだと思った。

ライブ中何回か、全員の音が消えたように感じた瞬間があった。4人の関係がええ感じすぎて、4人の音が「リズムがばっちり」とかそんなことじゃなくて、音が混ざり合って「音作り」とか「アレンジ」とかがどうでもよく感じる状態があった。だから音が消えたんだと思う。その時に涙が止まらなくなった。

ボーカルのタッシさんの目と声と歌詞と身体の動きがバシッと同じレイヤーにあって、圧倒的な強さだった。文句を言えようがない。そのことに希望を感じてまた泣いた。

逃げてないものは強い。

この全体的にいいバンドばっかりだったけど、僕が特にこの2バンドに惹かれた理由は、彼らが「逃げてない」と思うから。

何から?自分から。

今俺はこうしてブログを書いてる。この瞬間も、何回も何回も自分から逃げる機会はやってくる。
書きたいと思っている気持ちを言葉にする時に、格好良く思われそうな言葉の鋳型にむりやりその気持ちを押し込んで、さもそう思っていたかのように人も自分も騙そうとする。

言葉は明快やから、そう書けばそうだった事になってしまう。

言葉の鋳型と、無理やり押し込まれた気持ちとに隙間があればあるほど、その言葉は脆い。
中身が詰まっていないスイカを叩いた音みたいに、中身がスカスカの言葉の響きはすぐにわかる。

言葉は記号でもあるから、いくらでも嘘がつける。が、言葉の響きでばれてしまう。
言葉は簡単で難しい。

僕は今まで言葉の意味ばかりを追ってきたが、意味より大事なものは響きかもしれないと思い始めた。

音楽が好きで音楽をやってきたのに、言葉の音楽を聞き忘れていた事に驚く。


まだまだまだまだ、いい音楽はあるんやな。

いい出会いをくれたハートたちのみなさん、出演者のみなさん、nanoのみなさん、会場で出会ってお話ししたお客さん、ありがとうございました。


センテンス
まさとし