2017年3月7日火曜日

「ロック」を笑うか泣くか~ねじ梅タッシと思い出ナンセンス結成10周年記念ライブに行って~

振る舞い寿司を握る開演前のタッシさん。
中トロ美味しかった。

こんばんは、まさとしです。
先日、クラブメトロで行われたねじ梅タッシと思い出ナンセンスの結成10周年記念ライブに行ってきた。

僕たちの出版活動、STAGE出版のブログにも同じ文章を載せています。

以下、当日の写真を見ながら、今の気持ちを言葉にしてみます。



演奏前、本職板前のタッシさんが桂剥きをし、薄く伸びた大根を3人が両手で持つ。
この時点で僕は泣いている。カメラもなぜかぼやけている。

ねじ梅のライブを見たのは2度目で、初めて見た時のことはこの記事にあります。宜しければご覧ください。
(classicusとねじ梅タッシと思い出ナンセンス の「逃げてなさ」と言葉の響きについて。)

ねじ梅というバンドの素晴らしさは、なんて、ねじ梅を知ってたった数ヶ月の僕が大手を振って語れるものではない気もする。
だから、僕にとってのねじ梅の良さをひたすら書こうと思う。

僕はねじ梅の4人が演奏し、歌っている姿を見ていると、30分間のライブ中に何回も泣いてしまう。
こういうことは他のどのバンドにもない。


ボーカルのタッシさんの目と身体の動きと声と歌詞、全部が「逃げてない」と僕には感じられ、こちらも逃げられなくなる。
タッシさんはステージの上で別にピリピリしているわけではないし、笑顔も見せる。こちらも何度も笑顔になる。それは愛想笑いではなくて、心が満たされて湧き出る笑い。

僕は昔から「どんな音楽やってるんですか?」って聞かれて「ロックです」っていうと笑われるという経験をしてきた。

この“笑い”にはいろいろある。
でも、そのどれも僕には心地よいものではなかった。
もっと言えば、「ロックです」と答えている自分も、多分ちょっと笑っていたんじゃないかと思う。

ロックっていう言葉が市民権を得て、得て、得すぎて、死語になって、さらにファッション的記号になって、誰も傷つけない言葉として多くの人の脳みそと身体に標準装備されるようになって、その上で「ロックをやってます」とまっすぐ答えることが、難しい。少なくとも今までの僕には難しかった。

「ジャズです」「クラシックです」「シャンソンです」とは明らかに違う、「ロックです」。

35歳になって、2017年に「ロックです」と言うことを難しいと感じてしまう僕はなにを恐れているのか。

そういうことを、ねじ梅のライブを見ながら、聴きながら、なんとなく考えていた。というか、今ようやく言葉になってきた気がする。

毎度毎度自分のことばっかり語ってしまうけど、僕が好きなバンドやミュージシャンの演奏は、僕を映す鏡のような作用がある。

彼らがどれだけ激しいメッセージを放っていても、それを見ている僕は彼らの姿を通して僕を見ることになる。
そしてそれは苦しいことでもあるけど、そういうライブのあと僕は必ず「生きてて良かった」と思っている。
この日のねじ梅のライブもそうやった。

タッシさんとジョーさんとマコさんとフルヤさん。
4人の姿を見るだけで僕が泣いてしまうのは、そこに4人の逃げてなさがあって、「ロックです」と言いながらヘラヘラしていた自分の逃げている姿を見て、そして、そんな自分を更新できる可能性を感じるからやと思う。

ロックは自分と人を更新していくことで、壮絶で優しいこと。

『STAGE』出演者の一人、米田量さんが「更新」についていろんな角度から書いている。
米田さんのことを知っている人はどういうかな、僕が米田さんにロックを感じると言ったら。
笑うかな。笑わへんかな。
俺は今ならいたって真面目に言える、米田さんはロックですと。


どんどん話がそれているが気にしない。
写真はギタリストのジョーさん。
この写真、最高じゃないですか?
マジでジミー・ペイジと重なった。

僕は未だにジミー・ペイジが理想のギタリストの一人です。
他にはジミヘンやジョー・ペリー、イジー・ストラドリン、スラッシュ、アンディ・マッコイなんかが好きで、彼らに共通することは、やっぱり必要以上に「笑わない」ことだと気づいた。

ジョーさんもそうだった。
時折照れたようにはにかむことはあっても、基本的にギターを弾くために全身を使っている。
表情って不思議なもので、身体の中で一番嘘が付けるのに、一番嘘が下手な場所でもある。

高校生の時に聞いた言葉で未だに覚えているのが「ギタリストがギターを弾いている時の表情はセックスしている時の表情と同じだ」というやつ。
結構的を射てると思う。

僕はギターを弾いている時にギターを弾くためだけに身体を使うギタリストが好きで、その身体の一部である表情も僕には重要で、最高のギターを弾くために身体を捧げた結果浮かび上がってきた表情を見たい。

僕にとってジョーさんの表情は最高のギタリストの顔でした。
終演後このことを何回も暑苦しくジョーさんに語った。優しく受け入れてくれて良かった。

ここまで書いて、ねじ梅のライブのことを書いたらもっと涙涙した感じになるような気がしていたのに、もっと晴れやかな気分になっていることに気づいた。

というか、涙も、笑いも、ギタリストとしての表情も、それは全部身体が「今」に集中している結果浮かび上がってくるものに過ぎない、と思う。

泣いていても笑っていても無表情でも、それが身体の今の現れなら、それでいい気がする。
表情って、心の中の感情が外部に現れたもの、ってことやから、感情が素直に現れているなら、それでいい。

「ロックです」と笑いながら言ってもいいし、それを笑われてもいいな。

ねじ梅タッシと思い出ナンセンスのみなさん、10周年おめでとうございます。
良いライブをありがとうございました!


最初の桂剥きを、僕たちが作った大根でやってもらうという目標ができました。
いい大根を作りたいという気持ちがより大きくなりました。


まさとし