2017年5月16日火曜日

西洋彦/チッツ/メシアと人人のライブと「人生フルーツ」を見て感じたこと。何かになろうとしてない人の持つ「輪郭の鮮やかさ」。

以下の文章はSTAGEのブログにアップされたものとほぼ同じです。

こんにちは、まさとしです。

西洋彦さん、チッツ、メシアと人人のライブと、映画「人生フルーツ」を見て感じたことを書いてみようと思います。

西洋彦さん。



ライブハウスでいろんな音楽に触れているマサモトさんがセンテンスを見てくださる機会があり、その中で西さんというシンガーの名前がよく出ていた。

興味を持った僕たちは西さんのライブを見に行ってお話をするようになり、センテンスとしての初めての自主企画「畑とロック」に出演してもらうこととなった。

西さんの歌は、形式としてはフォークなのだと思う。
西さん自身も自分のことをフォークシンガーだと言っていると思うし、友部正人さんが好きだと言っていたので、間違っていないはず。

でも、僕は西さんのライブを見ていて、「フォークミュージックを聴いている」と思ったことがない。この日の演奏もそうだった。

決して大きくない身体で綺麗な服と靴を身にまとい、一つ一つの言葉を大事に且つ、力強く放り投げるような歌。
決して楽々とは弾けない、自分の身体から出てくる音楽世界の少し先まで手を伸ばすようなギター。

西さんの舞台は音楽としてスリリングだし、何よりそのあり方が西さんの生き方と地続きであるということが言葉を交わした経験から分かるから「今ここにいる人の振る舞い」として響いてくるという点でも、スリリング。

世界に対して自分のやり方で向き合うこと。

それが僕にとってのロックで、そういう意味で西さんは僕にとってロックな人です。

西さんを「畑とロック」にお誘いして間違いがなかったなと思います。



チッツとは、僕が20代の時に一時期所属していたパンクバンド肩こりの時代に対バンさせてもらったり、オムニバスアルバムに参加してもらったりしていた。

今センテンスでお世話になっているライブハウスネガポジでチッツのライブがあった。
僕にとっての昔と今が線で繋がる感じがあって、不思議だった。

チッツはいい意味で変わってなかったし、いい意味で変わっていた。
悪い部分が全然見当たらなかった。

変わらない真剣さとユーモアと真面目さがあり、音がよりソリッドに、リズムがよりタイトになっていた。

曲の全体の完成度よりも、キメの瞬間瞬間の格好良さを大事にしていて、その積み重ねとしての曲が結果的に格好良くなっているのかなという印象を持った。

それから、僕はギタリストだからやっぱりギターのフレーズの面白さに関心を持つ。

コードをかき鳴らす部分と比較的高音の単音フレーズ(しかもあんまりギター的でない奏法)で押し切る部分がはっきり別れていて、なんとなくストロークスを思い出したり思い出さなかったりする。
そういう音楽って、僕のギター歴にはないもので、肩こり時代から興味深く思いながら、自分の演奏にはあんまり取り入れられなかった。

今、肩こり時代の演奏方法がセンテンスにとってプラスになることとマイナスになることがあると分かってきていて、自分のスタイルを大事にしつつ壊していくことをやっている。
だから、余計にチッツの音楽には興味を惹かれるのかもしれない。

懐かしさもあったし、ちゃんと今の彼らの音楽に今の僕として触れられたことが嬉しかった。センテンスをやっていて良かった。

メシアと人人


メシアと人人は以前タワレコのインストアライブで見ただけだったので、ぜひライブハウスで見たいと思っていた。

チッツが激アツのライブをした後だったからどう迎え撃つのかと思った。

最初から爆音というか轟音で始まった。

顔をしかめて格好つけない言葉とざらついた音のナイフを刺していくきっさんと、その姿を見つめながら冷静且つ確実に打撃を決めていくナツコさん。

曲の構成とかフックとか、そういうことがどうでもよくなるくらいの音世界。ほぼずっと轟音の中にいるのに、不思議と静かな印象を持った。

チッツが赤い炎なら、メシアと人人は青い炎かもしれない。

かなりポップで聴きやすかった音源「最後の悪あがき」とは随分違う印象で驚いた。
明らかにチッツの熱を受けてのものだと感じたし、自分の身体から出てくる表現だった。人の真似では到達できない演奏だったと思う。

***

西さんにせよチッツにせよメシアと人人にせよ、その音楽をカテゴライズすることとは違うレイヤーで捉えることで見えてくるものがある。

それは彼らの音楽が彼らという人から切り離せないものであるということ。

何かになろうとしていない人の持つ「輪郭の鮮やかさ」。

それは、僕が「つきぬけてくる人」に触れる中で出版するようになった『STAGE』を貫く価値観とも合う。

世界に対して自分のやり方で向き合うこと。
それをやっている人に触れることが、僕の凝り固まった価値観をつきぬけてくるものとの出会いであって、感動であるから、僕にとってその生き方は圧倒的善である。間違いなく。

世間の基準に合わせていては、構造的に到達できないようになっている次元というものが世界にはあって、それはジャンルや立場や権力や資産とは直接関係がない。

ジャンルや立場や権力や資産を貫く串があって、それが世界に対して自分のやり方で向き合っているかどうか。
「畑とロック」や『STAGE』でそういう人たちと触れ続けながら、そのことによって起こった僕自身の変化も晒していけたらいいと思っている。

映画「人生フルーツ」を見た。素晴らしかった。


「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」というル・コルビュジエの言葉と、修一さんの、なんでも自分の手で時間をためてコツコツ作っていく、という生き方が、数字やお金に追われている自分の生き方を映してくれる鏡のように感じた。

この映画に限らず、偉大な人や面白い人の金言に触れるためのメディアがたくさんある。
『STAGE』1号も、そういう風に読まれるかもしれない。

そういうものが「消費」されることに、人が何を求めていてどのように生きているかが現れているように思う。

皆、そうなりたくて、そのようなものに触れて、感動して、また明日を生きてく。

そのことの美しさと醜さ、希望と絶望を思う。

「自分のままでいいんだよ」という言葉の軽やかさと重さにも似て。

この映画が伝えたかったものということではなく、ただ僕はそういうことを感じた。

憧れることは美しいことでもあるし、その対象と自分は全く違うということを突きつけられる厳しいことでもある。

彼はそうしている。自分は、どうする?

『STAGE』1号を出すときに言葉にしたこと、それを僕自身こうしてまた突きつけられる。

世界に対して自分のやり方で向き合うこと。

僕の右手には青いペンが、左手にはレスポールが、頭には言葉が、足元には畑がある。


はじめて身をつけたイチゴ。
すくすく育ってほしい。